中原会計について
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ごあいさつ

ごあいさつ

代表税理士 中原俊男私は、昭和47年に豊中市で、中原会計事務所を創設しました。25歳で当時では全国最年少の開業だったそうです。先輩の会社の事務所の中の机を一つお借りして、間借りでのスタートであり、お金も顧問先も全く皆無の状態で、開業と同時に新聞配達のアルバイトも並行してスタートしました。

顧問先の営業開拓の努力は続けましたが、効果は挙げられず、第一号の契約が出来たのは、開業10ヶ月を経てからの事でした。何の実績もない若輩税理士だから当然の事と受け留めて、あまり悲愴感は持ちませんでした。

少ない顧問先でしたので週1回は顔を出して、記帳以外にも工場の掃除や社長について銀行交渉や得意先の新規開拓に同行したりと、とにかく深夜まで顧問先のために働きました。満2年を経過した頃から、爆発的に紹介により顧問先が増え始め、1ヵ月に17件も契約できたりして、満3年をすぎた時点で、法人個人合わせて顧問先100件、職員はパートを含めて6人の事務所になっていました。

やがて職員任せになっているお客様から、苦情が寄せられるようになり、私はここではじめて大きな壁にぶちあたってしまったのです。

  • 経営者の苦労が本当に分かっていない。
  • 業界の事情を知っていない。
  • むずかしい数字や言葉を並べられても分からない。
  • 指摘はしてくれても解決策を教えてくれない。
  • 会社の立場に立って考えてくれない。

これらの言葉はすべて経営者の会計事務所に対する批判の声です。「これらの言葉にどう応えてゆくべきか…?」私はこれらの言葉を肌身に痛く感じつつ、永年「賽の河原」を彷徨うが如き心境で妥協をせずに、自分にも周りの人にも厳しくして、試行錯誤を重ねてまいりました。知らない職員はワンマンでとても頑固な所長と当初は想うことでしょうし、税理士試験が大切と考えている職員はいくら研修を施しても、そこそこで去ってゆきました。

税理士として今日まで38年間歩んできました。B型でカニ座ですから、好奇心は極めて旺盛です。だから、税理士としての仕事は、すべてやらせていただいたように思います。しかしその反面、すべての事が中途半端で、何一つ完成品が無いような気もいたします。

今日まで取り組ませていただいた仕事の結果として、私の事務所に遺ったノウハウを、業務案内としてまとめてみました。私と苦労を共にしてくれた職員が「職員紹介」のところで熱く本音でアピールをしてくれております。共感を覚えた職員がいたなら是非ひとつ仕事を託してやっていただけないでしょうか。それからこの事務所なら頑張って働けそうだと感じたならどうぞ門を叩いてみてください。将来について話し合いましょう。

私に残されました最大の仕事は、このホームページをもって発信している責任を、共同分担してくれる後継者を1人よりも2人、 5人よりも6人と多く育て上げて、業務品質を更に向上できる様に大きな輪を形成することであります。

このホームページについての、ご感想をいただけたら幸いです。これをご縁に、どうか今後とも一層のご指導とご鞭撻を、よろしくお願い申し上げます。

代表税理士 中原俊男

所長プロフィール

昭和21年7月2日生 B型カニ座 兵庫県城崎郡日高町(現在は豊岡市)出身神鍋スキー場の所在地で、スキーは幼児期から親しんできました。

兵庫県立豊岡高校卒業。
黒四ダムの関西電力社長太田垣士郎氏、石油化学コンビナートの丸善石油社長和田完二氏、小説家の今東光氏、民社党委員長佐々木良作氏、冒険家植村直巳氏らはすべて先輩です。

昭和40年高校卒業と同時に、上記の和田完二様の大阪の私邸で、書生として奉公しながら、関西大学商学部へ入学し、会計学と経営学を学びました。

和田完二様は専務時代に脳梗塞で倒れられたものの、病床で社長の辞令を押し付けられ、左半身不随の不自由な身体で粉骨砕身努力をされました。その結果わずか5年程で資本金5億円だった丸善石油(現在はコスモ石油)を資本金164億円の上場企業に成長させた立志伝中の大先輩でした。
「企業は人なり」が信条で昭和30年代に丸善石油高等工学院を設立、自ら学院長となって当時では日本一と評価をされた社員教育を実践されていました。
大学が休みの土曜日、日曜日は多くの訪問客の取次ぎや応接が私の仕事でした。政財界はもとより、文化、学術の分野の先生方の来訪も多く、直接対話をさせていただきとても勉強になりました。和田社長からは常に「名刺の肩書きで人を判断するな。」「どのお客様も公平に扱え。」等々いろいろな事を厳しく躾られたものです。

河内瓢箪山の天台宗の名僧、河村良諦和尚に師事。檀家を1軒も持たない主義の生き方で、やくざの喧嘩の仲裁や、離婚騒動を円満に解決をしたりして、お礼としていただいたお布施をもって自給自足の生活をされている和尚の許に通い、人生について学びました。上記の今東光先生のまさに「悪名」の世界の体験でありました。

吹田市に新設された最新の開放病棟方式を取り入れた、精神病院でSCW(ソーシャルケースワーカー)の見習いとして、満2年間アルバイトの立場でしたが頑張りました。そううつ病、薬物中毒、分裂症、神経症等々の患者さんに精神科医、心理学者の先生方から処方箋をいただき、作業療法、レクレーション療法を通して社会復帰のための精神的リハビリテーション業務に取り組みました。患者さんの入浴タイムには一緒に裸になって入浴して背中を流してあげたり、髭を剃ってあげたりしてスキンシップに努めました。今から想い浮かべても、もっとも人間らしい気持ちで取り組めた仕事でした。

昭和44年よりニットセーターの下請メーカーの事務員として豊中市の会社に就職しました。経理、総務はもとより、新規開拓の営業や、工場の自動化投資計画にも社長の片腕として取り組みました。下請零細企業の悲哀を、嫌と言うほど体験した事が今日活きています。

昭和46年より、大阪市北区の細谷会計事務所の細谷陸雄先生に、税理士の有資格者として迎えていただき、プロとしての修行の途に加えていただきました。
計算や筆記のスピードが遅い私の能力を評価して先生からは「君に記帳代行をしてもらっても採算が合わないから、何でも良い、お客さんから感謝されるような仕事を自分で捜して取り組んでみなさい。」と自由に行動できる立場を、与えていただいたのです。

恩師細谷先生は朝は早くから、堺のお客様や役所に愛車のファミリアで出向き、午後3時頃から5時過ぎまでは事務所でデスクワーク、その後6時と8時と10時との3件の経営相談や税務相談の予約先を、巡回されるのが日課でした。
私は志願をして夜の訪問に鞄持ちとして、許される限り同行させていただきました。現場での親身なご相談ごとに同席できてとても勉強になりました。

上記の事を経験させていただいた私の恩師達は、超一流の人物でした。これらが中原会計事務所の原点であります。そのかたわら、税理士試験の勉強もコツコツとやってきました。

愛読書 司馬遼太郎「竜馬がゆく」
私も組織に縛られない、自由業を選択しました。